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algenpfleger:

Here’s steps for a painting that was pretty defining for me as an artist. It’s a bit older now, but still gives me feels and feels belong on a tumblr. Took three or so days I believe, all from imagination.

外に出るのに、わざわざ目的が必要かな。どちらかというと、帰ってくる理由の方が大事なんじゃないかと思うな。
「何が楽しくて生きてるの?」という問いの中には、「生きてるからには楽しいはずだ」という前提、予断、先入観、固定観念がある。みんながみんな楽しんでねえし、お前の定義で言えば生きてすらいねえよ。

あなたの文章からは変態であることの後ろめたさと言うよりは、「人と違ったことで興奮する俺サマの特別ぶり」みたいな選民的なニュアンスを感じるよね。変態同士の仲良しクラブでも作るつもりなのか知らんけど、すでにあなたの中では「自分の特殊性癖を誰かに開陳したい」という欲望が膨れ上がっていて、声をかけるのに躊躇しているというのはポーズに過ぎないんやから、とっとと次のステージに行くことをオススメするよ。

ただおじさんが危惧してる点が一つあって、それはそうやって仲間を作ることであなたの変態行為の「質」が変わってしまわないかということ。変態行為が「孤独の愉しみ」から、「俺サマがどこまで行けるかの見せ合い」になってしまわないかっちゅうことなんや。変態仲間に勝ちたい一心で行為をエスカレートさせていく方向は、自尊心の栄養にはつながれど、長期的な視点で見た時に行為自体の「質」を高めていくことには繋がっていなかったなというのが、おじさんの過去の経験則から言えることやで。

今こうして一人深夜のアコヤ貝養殖場に忍び込み、「アコヤ貝の周りにブルマを巻きつけたらブルマ色の真珠がとれるんちゃうの?」という疑問に取り組んでいると、はっきりとわかる。自分を包むこの暗い海こそが、おじさんの心そのものなんや。孤独だけが、自分自身が本当にしたいことを教えてくれる。おじさんの世界の強度を高めてくれる。おじさんはそう信じてるよ。さぁ、そろそろ海上保安庁のお出ましや。潜るで、絶望のヘドロに淀んだ深き水の底へ…。

margotdarling:

my-placenta-is-on-fire:

cutesign:

Book on Book, designed by TENT, is a transparent acrylic book paperweight to hold down the pages of a book from flipping as you enjoy tea and sweets outdoors while you read.

cutesign

and it protects your books from your tears

this seems nice, but i read way too fast for this to ever be helpful

 一昨日、カメラを売った。
「査定額は、二万六千円になります」
 電器店の買取査定カウンター。担当の店員に承認のサインを促される。
 ポイントで受け取るのならば十五パーセント割高で引き取ってくれるらしいのだが、その選択肢ははじめから頭に無い。
 製品保証書は買取の対象外で期限も切れているから、と店員が査定の済んだカメラの箱から保証書を取り出し、処分を乞う。
「すみませんが、この保証書はそちらで捨ててください」
 僕はそう言いながら保証書を見やった。
 それによると、どうもこのカメラを買ったのは去年の春頃だったらしい。
 保証書の押印は新宿のカメラ買取専門店で、そう言えばこの時は確か最初のカメラからの買い替えだったことを思い出す。
 初めてのカメラではそれはもうたくさん撮った。ついでに知らない人にも多く会った。カメラを教えてくれる人はインターネットにたくさん居た。よく一緒に出掛けもした。
 会えば撮り、撮るために会うような生活が続いた。
 でもそれは最初のカメラの間だけ。
 この新しいカメラに買い換えてからの一年は、まともにシャッター音を聞いていない。
 仕事に忙殺されていたのは確かだが、それでも時間は作れたはずだ。
 けれど、一度『自分は忙しい』と決め込んでしまうと、他のことはどうでもよくなる癖が僕にはあるらしかった。精神的な余裕が人より少ないのかも知れない。
 とにかく、次第に写真のことを語る仲間たちの集うIRCから、僕の足は遠のいていった。
 そうしていつの間にか、僕にはもうこのカメラで撮りたいと思うようなものがとっくのとうに無くなっていたことに気付いた。
 いや、街をよく散歩したならば、いっそ旅にでも出てみたならば、何かしら見つかるだろう。
 けれど。
 もう、そういうことの出来ないところまで僕は来てしまっていた。
 どうも、僕は僕の人生に失敗したらしい。
 身体を壊す前に仕事を辞めたつもりが、とっくに手遅れだったらしい。
 悪夢のような現実から逃げ出したつもりが、今は毎晩仕事の夢ばかり見る。
 それでは、目が覚めた後のこの世界は、一体何だと言うのだろう?
 今や目に入る風景全てがのっぺりと平坦に見える。何も魅力的に感じない。フレームに収めたいとは思えない。
 僕は今日、金が尽きてここに来た。
 余命幾許。
 僕の命運は時間切れ寸前だ。
 乱雑に署名を済ませ、買取証書の控えを受け取る。すると、
「もしお時間よろしければ……」
 と、査定担当の店員が、カウンター越しに僕の顔色を窺いながら続ける。
「買取査定の満足度アンケートにご協力いただけませんでしょうか?」
 差し出された用紙を前に、僕は無言で再びペンをとる。
 買取のやり取りの間、始終仏頂面だった僕が、その態度とは真逆の丁寧なコメント付きの高評価を書き込んだことに、店員は吃音混じりに頭を下げた。
 びっくりしていた、と言ってしまっても良いだろう。
 少なくとも客の前で見せる顔ではない。もっと言えばとてもおかしな顔をしていた。
 だから僕は笑ってしまった。
 声を出して、しかも人前で笑うなんてのは、随分久しぶりのことだったかも知れない。
「そんなに驚かなくったって、いいじゃあないですか」
「いえ、失礼致しました。高くご評価いただきありがとうございます。またのご利用お待ちしております!」
 瞬間、そこで僕ははじめて、手元からカメラが無くなったのだという喪失感を現実のものとして把握した。
 だけれども、その時になったってもう遅い。
 僕は、自分を慰めるための言い訳の言葉すら、まるで思いつくことが出来なくて、コートの手の中に残った買取不可品の8ギガバイトSDHCカードを握り締めるしかない。
 そして電器店のエスカレーターを下りながら、新たに頭を過ぎりはじめるいくつもの不安について、ただぼんやりと最期の金の使い道を考えることでやり過ごすしかないのだった。
shoot,snatch,destroy (via nanabusode)
この歳になって周りを見て本当に思うんだけど、自分が一人じゃない、という確認をしたいがために人との交流を無理やりはかる人の多さは少し異常だと思う。青春はもう終わったんだ、と認められない大人の多さというか。一人でいることを罪悪だと思い過ぎる人が多過ぎるというか。あまりにもダルい。

何かを好きになるのって才能だと思う。
人でも、仕事でも、遊びでも。
僕にはそれが出来ない。人生の大半が苦痛だ。
「そんなことないよ」「みんな楽しそうに見せるために影で頑張ってたりするんだぜ?」「だからお前も幸せんなれるって」みたいなこと言われても、困る。
わざわざ楽しそうに見せてくれる必要なんてないし、我慢して頑張って笑顔作るなんてよしなよ、と思ってしまう。
それでよく「不幸な人だね」って言われる。
「病気だ」とか「一生治らないんだろうね」とか。

それならそれで全然いいよ。
だけど、無理につくった笑顔の代償を、僕で支払おうとするのはやめて欲しい。放っておいて、くれないか。
水道で手を洗ったって汚れは落ちてないって気付きなよ。
幸福は無限に沸いてくるもんじゃないってまず認めなよ。
その手でどっかの誰かから奪ってきたものなんだから。さぁ。

なんだって、なんでもかんでも「好き」になんなくちゃいけないんだ。
おかしいよ。
「嫌い」なことで日々の糧を得たっていいじゃないか。
どうしたって自分が正しいことにしたいのか。報われたいのか。
間違ってたっていいじゃないか。

僕は絶対、嫌だけど。 (via nanabusode)
最近割とインターネットがつまらなくて、よく考えたら随分前から能動的にBlogを読んだりなんてしてないし、SNSの開拓時代以後の雰囲気に馴染めるわけもなく距離がある。
他人の考えなんて別に知りたくもないと感じている。
他人の政治的な信条、主義主張などはじめからどうでも良いことだった。
ひとりで全く構わないと思う。
僕は孤独を失いつつある。
自分の情動について、心底面倒くさいなという気持ちがある。
誰も傷付けたくないし、それ以上に傷付けられたくない。
そんな空間の中に永遠に居られるのなら、どんなに幸せだろう。
ふわふわ時間 (via nanabusode)
「人がいつ死んでしまうかわからない」と正直に感じる人は、大抵どこか壊れている。
普通の世界は、そういう「虚無」というものを隠蔽するために、仕事したり、恋をしたり、家族を持ったり、夢中になったり、空気を読んだり、旗をふったり、戦争したり、僕らは大騒ぎして生きているのだ。「空気に合わせて楽しく生きる」というのは、世界の虚無を隠蔽する陽気なお祭り騒ぎだ。
でも、一部の人は、自分の心に対してそういう隠蔽をスルのが下手だ。
そういう人は、みんなが盛り上がっている瞬間に、ふと世界に醒めてしまう。そして、その世界に醒めていること自体を必死で隠そうとする。糖衣が剥がれてしまった苦い薬を、甘いままであるようなふりをしてしゃぶり続ける。
じぶんに起こった出来事を知るのに何十年もかかることがある。じぶんに起こる個人的な出来事の大きさは、世界に起こる出来事と同じ大きさをもつ。
この東京という街で、僕らはいつの間にか新宿まで~キロメートル、池袋まで~キロメートル、ではなく新宿まで~分、池袋まで~分、と距離を鉄道での移動時間に換算して思考している。ここではつまり、人間の思考回路上の「距離」が意味を失い「時間」に置き換わっているといえる。こうした現象は、なかなか他の街では起こりづらい。東京ほど面積が広い都市は世界でも珍しく、たいていの場合はここまで鉄道依存が強くないし、ある程度鉄道依存が進んでいても、実際の距離と鉄道での移動時間が極度に食い違うことは珍しいからです。そう、東京はおそらく世界有数の「地理」というものの意味が死んだ街だと言えます。